向山洋一授業CD「雪」から何を検討し学んだか
「雪」の授業から抽出する
「向山型」授業の条件
浅川 清(TOSS相模原)
「雪」の授業CDを通勤の車中で聞いて震撼した。
私達が登ろうとしていたのは、こんなにも凄い山だったのかと。
1.微塵もムリ・ムダがない
2.子どもたちの、驚くべき知性の高さと伸びやかさ
3.それを遙かに凌ぐ、教師の圧倒的な知性の高さと懐の深さ
1.微塵もムリ・ムダがない
一切のムリがない。完璧なまでにない。
討論の授業で、ムリを通せばどうなるか?道理の代わりに、発言が引っこむ。未熟な私が今も経験していることである。
しかし、この授業には、一切のムリがない。
(1)授業の流れにムリがない
子どもたちがムリをして考えているところが一箇所もない。ひとつひとつの問いの答えを探していくうちに、自然に考えが深いところに及んでいるのである。
@雪深い里に雪が降り続いているイメージを思い描く
↓
A屋根はひとつなのか?ふたつなのか?
↓
B屋根はふたつなのか?それ以上なのか?
「雪」の授業の流れは、骨だけ抽出すれば上記のようになると考える。
@のために、以下のような授業行為がある。
読ませる→読んで聞かせる→浮かんできた風景に浮かんだ言葉を書かせる→もう一度読んで聞かせる→「ドアがあったらばドアを開けてみて。家の中に入ってみて」と言葉をかけて更に書かせる→書いたものをすべて発表させる→都会の風景なのか田舎の風景なのかを問う→雪は降っているのか止んでいるのかを問う→昼なのか夜なのかを問う→どのぐらい降っているのかを問う→日本地図でいうとどの辺りかを問う
これなら、「ムリなく」「一人残らず、どの子も」イメージを描くことができるだろう。
「急がば回れ」という言葉がぴったりする流れである。「回れ」なのであるがムダがない。
微塵もない。だから、心地よい緊張感が持続する。
AとBを分けたからムリがない。
Aを考えさせた後に、Bを考えさせているからムリがない。
(2)教師の考えを押しつけない
CDを何度聞き直しても、教師の考えを押しつけているところがない。あくまでも子どもたち一人一人の発言に添う形で授業が進む。明らかに間違った答えが出てきても、つぶそうとはしない。「屋根は一つ」という意見には、次のような言葉で対応している。
図に書いてみて。消さないで。消さないで。なるほど。
これ、いっしょだというのは、はっきりしています。先生、納得します。
要所では、子どもの発言内容の中にあった対立点を取り上げ、それを発問に代えている。例えば次の箇所だ。
ハイ、分かりました。家が二つ。東さんの場合は家が二つ。で、村瀬君の場合は家がいくつですか?
東さんと村瀬君の発言を取り上げ、「家は一つか?二つか?」と発問している。見事に子どもの発言が生かされている。
「四行あった詩の省略形だ」という凄い意見が出た後でも、次のように語っている。
じゃあ、これはそこである程度終わっておきましょう。牧野意見と、それから杉山・石崎意見と、どちらでもいい。
大西忠治学級の例を紹介した後でさえ、次のように言っている。
それはあっているかどうか別ですよ。
微塵も押しつけていないのである。
このような授業を受けているから、あの伸びやかな子どもたちが育つのだろう。
2.子どもたちの、驚くべき知性の高さ
Aの意見が間違っていたとする。しかし、根拠がしっかりしていれば、Aの意見を教師は支持する。すると、Bの意見を持つ子は、更にしっかりとした根拠を示さなければならない。ここで、子どもは鍛えられる。
CDに登場する子どもたちの発言の中に、しばしば「もし○○なら△△となるはず」という形の言い方が出てくる。胸がすくような論理の明快さである。
3.それを遙かに凌ぐ、教師の圧倒的な知性の高さと懐の深さ
「子どもたちの発言に添った授業」ができるのは、子どもたちを遙かに凌ぐ深い考えが教師にあるからである。どんな発言が飛び出そうと、びくともしない教材研究の深さがあるからである。
二行だけという人に聞きます。もしか二人ならば、なぜ「次郎も眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ」そういう風にして、そこで終わらせないんですか。
この箇所を聞いた時は、既に自宅のガレージまで来ていたが、車から下りられなかった。背筋に何かが走った。そして、大西忠治学級の意見が紹介される箇所を聞いて、唸った。しばらく余韻に浸った。
素晴らしい授業は、素晴らしい芸術のように、人を感動させることを知った。
|